びーの日記

本とか、音楽とか、映画とか、絵とか。だいたいひとりごと。

【創作】花を植えた話

 花を植えた。正確には花の種を植えた。植物を研究している研究室なのだから、きっと綺麗に咲くだろう。一仕事終えた僕は、直径5cmくらいに小さく切り取られた地面をデスクに置いた。花の名前は知らない。書いてあるけれど、認識するのも面倒だ。季節が相応しいのかも分からない。僕は植物に詳しくない。僕の席から、デスクで論文を読む先輩の後ろ姿が見える。あとのメンバーは全員、実験室のようだ。実験室よりデスクに座っている時間が長い研究者は、ロクでもないとどこかで聞いたが、確かに僕はそうだった。「Sさん、花を植えましたよ」と声を掛けると、先輩は緩慢に顔を向けた。疲れたような顔に、ようやく微笑のようなものが浮かんで「枯らすなよ」と言った。ふと、花は咲かないような気がした。そして僕は、それを最初から知っていたような気がした。

 

 驚いたことに、芽が出た。こういう時に、僕は生命の不思議を感じずにはいられない。どうしてあんなに小さく縮こまった黒い粒から、種子の何倍もある瑞々しい緑が現れるのだろう。僕はきっと、このまま直径5cm大の土に気が向いた時に水を掛ける生活が続いても構わなかった。そこに、芽が出るという意外な変化があったわけだから、僕は随分嬉しくて、研究室のメンバーに報告をした。右隣に座っている先輩のAさんは花の名前を言ったが、僕には耳馴染みがなかったので忘れてしまった。左斜め前に座る後輩Nは、この小さな庭を日の当たる場所に移動させてくれていたらしい。AさんはSさんと頷き合って、「その花なら朝晩の冷え込む時間帯は温室に入れておいた方がいいだろう」と言った。

 

 かくて僕の植えた花は僕の手を離れ、至れり尽くせりの世話を受けて順調に成長していった。Nは、日当たりがいいからという理由で、僕の小さな庭を学生部屋の外の廊下に持ち出した。対面は教授のオフィスになっていて、日差しを受けてよく乾く土に、教授が水をやっているのを見かけた。僕は既に僕の管理下にないそれを、気付かれない程度に歩調を緩め、教授の背後を通り過ぎながら見守った。僕の所属する研究室は、他の研究室から離れた別棟にあった。研究室全体では20人を超えても、4人の教員が別々のオフィスを持っていたから、僕の指導教官である教授の元には6人のメンバーがいた。この二階建ての研究棟に、先生も含めてたった7人。僕は誰ともすれ違わず、いつも広々としたこの環境が気楽で好きだ。

 

「おう、大学来てたんだ」

 僕はその時、古びた学食でふやけた鶏の揚げ物を食べるのに苦労していた。午後3時、学生の姿もまばらで知り合いにも会うまいと思ったのに、顔を上げると友人がいた。訝しげに目で問いかけてみると、あんまりにも見かけないから、と友人は補足した。「こっちは昨日、同じフロアの研究室で鍋をしたんだ」夕飯を兼ねてね、と友人は言った。友人の研究室は、夕食用にまとめて米を炊く習慣があった。僕は大きすぎる鶏の塊をほぐしながら「こっちは花を育ててるよ」「花を扱うテーマなんてやってた?」研究用じゃないよ、と笑うと友人も笑った。友人はちょっと欠伸して、目を擦った。「そっちホワイトだろ? こっちは連日、深夜コースだよ」「僕たちは植物を扱ってるから、時の流れが緩やかなんだ。研究材料のスケールに左右されるんだよ。星とか、数学を研究してる奴らとか見てみろよ」僕たちはおそらく同時に、共通の知り合いである数学科の博士課程の先輩を思い浮かべ、友人が「確かに。あの人とか、研究室にいる様子ないよな。数学は自分の頭とペンさえあれば、外でもできるんだとか言ってさ」と楽しげに言った。僕も自然と笑ってしまう。「植物の専門家なんだから、ちゃんと咲くだろ」と励ますように言うので、「よく誤解されるけど、僕は植物全般に詳しいわけじゃないんだ」僕の卒論、聞いただろ? 僕はある二次代謝産物の生合成経路を追ってるんだ。「まあ、でも、咲くと良いな」「それはそうだね」今やすっかり研究室の、さらには友人の共通認識になってしまったわけだから、僕は何としてもあの花には咲いてほしいと思った。「きっと、咲くと思うよ」と、少し祈りを込めて言った。