びーの日記

本とか、音楽とか、映画とか、絵とか。だいたいひとりごと。

寂しさについて

 私は時々、自分がなにをしたいのか、なにが欲しいのか分からなくなる。恐らく全て不正解なのだろう。誰がいても、なにが手に入っても足りないままだ。私は今まで、この根源的な寂しさに気が付かずにいたと思う。家族といれば寂しいとは思わなかった(時々はその遠慮を知らない好意を、鬱陶しいと感じることもあったけれど)。友達が少ない私にとって、集団の中の孤独は馴染みがあるものだった。みんなでいるのに寂しい、はよく分かったけれど、大切な人がすぐ隣にいて、しかも天気も良くて(私はよく天気の影響を受けた。雨の日はなんとなく悲しかった)、おまけに道行く人々は花を眺めて幸せそうで……、それでも寂しいというのは不可解だった。

 私はベンチに座って自問自答した。隣にいる相手の存在を認識はしていたけれど、それだけだった。どうしてこんなに寂しいのだろうか? 今までは居心地が良かった。ここでならなんの不安もなかった。しかし、ここで休めないのなら、私はこの先、ずっとこの寂しさを抱えて生きていかなければならない。ここで休めない以上、どこに行っても同じであることは明白だった。私はこの先、あの満たされたぬくもりに浸り切ることはできないのだ。

 一瞬、とてもではないが生きてゆけないような気がした。しかし、思い直した。みんなそうなのだ。みんな寂しくて、みんな同じようにひとりなのだ。あるいは気が付かずに済むのかもしれない。私は「気が付く」ことが優れている、あるいはよくものを考えているなどと言うつもりはない。それはただの分類の問題だ。当たり前に人間はひとりなのだ。しかし、ひとりではないかのように生きることもできるのだ。

 私はこの先、どうやってこの寂しさに立ち向かったらいいのだろう。欲しいものも、大切な誰かもきっと全て不正解で、外側の力は何ひとつ、私の内側のひんやりとした空洞を塞ぎはしない。それは私自身の問題だからだ。私にしか迎え撃つことはできないのだ。恐らく私はこの先、空洞を持て余し、眠れぬ夜を過ごし、なにに対してか分からない焦りを感じ続けるのだろう。そして、その空洞を埋める術を探し求め、少しも進まない道のりに何度も立ち止まりそうになりながら、長い戦いを強いられるのだろう。

 時々は言い訳をするだろう。時々は外側に、甘えという名の弱音を吐き出すだろう。そして一時凌ぎに過ぎない関心を得ようとするだろう。しかし、それが自分の答えにならないことを、誰よりも自分が知っているのだ。