びーの日記

本とか、音楽とか、映画とか、絵とか。だいたいひとりごと。

かたちにする

 かたちにするって、難しい。だからこそ、かたちにしてみたいと思った。ということで、つい先月のこと、私は自分の文章を製本してみた。製本してみた、といっても依頼して完成品を郵送してもらったのである。文庫本サイズで110頁、その頃、何も手に付かずに苦し紛れに書き綴った、行き場のない日記帳のような文章だ。私はそれを、読み返すこともなく本棚に立て掛けている。どうしてか文章を書いたけれど、まとまった思想などありはしない。暫く読み返すことはできなさそうだし、それでも「ゼロ」だと思うのはつらいので、私が鬱々と綴った文章に紙とインクの質量が備われば、自分は全く無駄なことをしたのではないのだと納得できるような気がした。結果は、特に何も変わらない。本にしてみたところでやはり何にもならないと思いながら、私は今も時折文章を書いている。書きたいものなどない癖に、どうして文章を書くのだろうか? 書きたいものがあるからこそ、きっと人は文を書くのではないだろうか。そうではないとしても、そうして書かれた文章が価値を持つのではないだろうか。

 私はいつも心のどこかで、自分が甘ったれで弱いことを苦々しく思っている。その意識は日常では息を潜めているのだが、ふと誰か強い人に、力のある言葉に、感情を揺さぶられるような生き方に出会った時、それは私に痛みを感じさせる。私は自分を不甲斐なく思う。そうして、自分が何事にも大げさに騒ぎ立てているように感じられるのだ。私には今、書けることがないだろう。私は自分がここにいる、と胸を張ることさえできないのだから、意志を持って文章の最初から終わりまでに「生きた何か」を、閉じ込めることなどできそうもない。そうして弱り切った顔をしながらも、私にはどうしようもなく深刻さが不足しているのだ。そんな風だから、自分がどこに立っているのかも自信が持てないのだろう。

 こうして思い悩む時間など、ない方が幸福だろうか? 「それどころではない」という疾走感、それが生の実感を与えるとしたら、それが密度ある人生だろうか? しかし、私は追い詰められたくはない。走り続けなければ飲み込まれてしまうような状況の中に投げ込まれたら、私はきっと立ち止まりたいと心の底から願うだろう。私はみんなの輪から少し離れている自分が嫌いではなかった。今もそうだ。だから、置いていかれてその姿が遠ざかっていったとしても、私は迷ったり不安そうな顔をしたりしつつも、最後には自分の意志で立ち止まるような気がする。

 私はかたちにしたいのだ。それは名声でなくていい、ただ自分が胸を張れるようななにかを、「ああ生きていてよかった」と思わず心に呟く瞬間を積み重ねたい。それは物質でなくていい。もっと曖昧なもの、熱気や静寂や穏やかさの調和の中にも、それを感じたことがある。例えば、もう何年も前のことだ。なんてことない地元の川辺で、なんてことない夕暮れ時のことだった。何もなかった。そう、特に何があったわけではない。そこには景色があり、隣を友人が歩いていた。これも何年も前のことだ。サークルで訪れた島で、私は坂道を登っていた。その島にはサトウキビがたくさん風にそよいでいて、ざわざわと見渡す限り、空と褪せた黄で視界を二分していた。坂の頂上には、青空だけが見えた。私はその景色の中をゆっくり歩いていく。今でもその幸福感は失われていない。そこには劇的なものは何一つなく、あの瞬間の証拠とてない。それは私以外の、その場に居なかった他の誰にも共有されない。理解されない。私はあの時、言葉を惜しんだ。言葉にすることで、何かの調和を崩してしまうような気がしたのだ。だから、私は時折、自分と言葉の相性を疑ってみたりもする。私は言葉が好きだ。しかし、私は肝心なところで言葉を遠ざける。それは私の思考の限界なのだろうか? それとも、やはり言葉には踏み込むことのできない領域があるのだろうか。

 なんだか、話が余計な方に逸れたような気がする。しかし、思ったことを書き留めておくのは、後々読み返してみるとなかなか面白い。取り留めもない思考を繰り返しているから、自分でも思いがけない方に転がっていくのだろう。それがいつか、何らかの方向に、ある「かたち」をとって、これが私だと胸を張れたらいい、それが私の密度になればいい、と思いながら。