びーの日記

本とか、音楽とか、映画とか、絵とか。だいたいひとりごと。

移り変わる空と地上の話 青空

 ああ梅雨が明けた。ふっと心が浮き立つのを感じた。私には天気図は読めないし、データの示す意味も分からないというのに。しかしこの空の高さ、広さ、青さが何よりの証拠だと思う。それが大切なことなのだけれど、大人の習慣を身に付けた私には、この感覚が到底、周囲の理解を得られないことは知っている。

 この空の軽さ、空気の熱、日の混じりけのなさ、ほらこれが何よりの答えだと示したところで、きっとそうに違いないねと笑う誰かに思い当たる当てなどないのだ。ないことはない、と無意識が意識に口を出す。そうだ、君なら何でもなさそうに(いっそのことつまらなさそうに)、そうらしいと頷いてくれるだろう。

 

 君には分かる。君は子供だったことを覚えているし、データが示す数字の羅列に意味を持たせることができる。私には分からない。君が考えていることも、私の君への感情も。好きだとは思う、それにしては熱が欠けている。離れて君を思う時の私の心は、穏やかで乱れるということがない。君から私への思いを量ろうとはしない。それは愛か。君に出会って初めて私は、君と大切な人全ての幸せをあるがままに願うことができた。君は私のものにならなくていいし(心の所有など最初からできるはずはないのだが)、君に私だけを見て欲しいとは思いつきもしない。そうか、恋を経ない(それでいて最初から与えられていた家族の愛とも異なる)愛も確かに存在し得るのだ。

 その理解は唐突に訪れた。時間を掛けてゆっくりと降り積もったものだったのだろう。愛は事実、存在する。嘘みたいに、地上を押し付けていた呪縛が向こう側に隠していた夏、その姿が現れるとともに、私のどろどろと停滞していた思考が流れ着く先を見つけたのだ。愛とは湿り気を帯びたあの季節のように重苦しいものではなかった。愛とはこんなにも静かで、確かめることすら難しいほどにさりげなく、それでいてそこにあるものだったのだ。そしてそのことを知らない、誰かを愛したことがない人にはどうしたって見えないだろう。

 息がしやすいと思う。いかに人を愛したかが人生の価値だとらしくもなく思ったのは、天候の影響を受けやすい私の精神が一時的にこの空と同調しているためだろう。それも世界の一面には違いない。誰に見えている世界が正しいのか、そもそも正しい世界の認識などというものが存在し得る、共通の絵として眺めることができるものなのかは置いておくとして。私が今感じた人生の目的もまた、私にとってのひとつの答えであっていいような気がしていた。

 

 君は笑わないだろう。同意してくれるかは分からない。君の考えはもちろん、その反応も私には見えない。それだから君に話したいと思う。模範解答に定型文があふれた日常で、予測し得ない君への関心が尽きないのだ。分かりきった人間関係には破綻などなく、穏やかで間違いがない閉塞感に息が詰まる。そこに開けたのが君という存在だった。あるがままに君は思考し、言葉を吐く。

 

 それが私の青空だった。梅雨明けに見上げる空の青さと空気だった。