びーの日記

本とか、音楽とか、映画とか、絵とか。だいたいひとりごと。

天気のいい日に

 今日、まず考えたことは「天気がいい」だったと思う。空が青かったし明るかった。今日はさまざまに姿を変える。いい日のこともあるし、気分が落ち込んで抜け出せないような日もある。それでも私以外の誰かの視点では、同じ一日にも何通りもの「今日」がある。そんなことを次に考えた。今日は世界のどこかで素敵なことが起きている、そんな当たり前のことを意識せずにはいられないくらいに、気持ちのいい朝だった。

 この頃ふと考えるのは、私は人間関係でできているということだ。何も手につかない時、思考が繰り返してどうにも抜け出せないような気がする時、私は何を考えているのか注視してみた。それは、誰かの言葉だったり、気配だったり、雰囲気だったりした。私は海や空が好きだ。晴れた日の、冬の高い空が好きだ。しかし、そこにずっと居たいと思うことはあっても、その静かな環境に浸りながらやがて私の思考がかえってゆくのは、やはり誰かの言葉だったし、思いだった。

 時々、私は自分というものの頼りなさに愕然とすることがある。私は何によってあらわされるのだろうか? 私は自分をどう紹介できるだろうか。全て曖昧なまま、一色に塗ることのできない在り方が怖くなる時、私にはいろいろな人の言葉や思考が詰まっていることを思い出すようになった。それは人から、本から、情報の海から、直接・間接を問わずに受け取った言葉だったし、繋がりだった。

 その言葉は長い間眠っていて、不意に目を覚ますこともある。故人も、暫く顔を見ない友人も、その他のどんな関係も、終わってはいなかったし、消失していなかったことを思い出す。私の心の中で生き続けていたことに気が付く。例え世界に一人きりみたいな気がしている時でも、それはなくなったりはしていない。ただ私に見えないだけで。

 それを忘れないようにしたいと思った。自分の心の中にある、もしかしたら昔よりも仕舞い込まれて見えにくくなってしまっているかもしれない、好きなものや大切なものを、見失わないようにしたいと思った。そんなことをふと連想する、天気のいい日だった。

かたちにする

 かたちにするって、難しい。だからこそ、かたちにしてみたいと思った。ということで、つい先月のこと、私は自分の文章を製本してみた。製本してみた、といっても依頼して完成品を郵送してもらったのである。文庫本サイズで110頁、その頃、何も手に付かずに苦し紛れに書き綴った、行き場のない日記帳のような文章だ。私はそれを、読み返すこともなく本棚に立て掛けている。どうしてか文章を書いたけれど、まとまった思想などありはしない。暫く読み返すことはできなさそうだし、それでも「ゼロ」だと思うのはつらいので、私が鬱々と綴った文章に紙とインクの質量が備われば、自分は全く無駄なことをしたのではないのだと納得できるような気がした。結果は、特に何も変わらない。本にしてみたところでやはり何にもならないと思いながら、私は今も時折文章を書いている。書きたいものなどない癖に、どうして文章を書くのだろうか? 書きたいものがあるからこそ、きっと人は文を書くのではないだろうか。そうではないとしても、そうして書かれた文章が価値を持つのではないだろうか。

 私はいつも心のどこかで、自分が甘ったれで弱いことを苦々しく思っている。その意識は日常では息を潜めているのだが、ふと誰か強い人に、力のある言葉に、感情を揺さぶられるような生き方に出会った時、それは私に痛みを感じさせる。私は自分を不甲斐なく思う。そうして、自分が何事にも大げさに騒ぎ立てているように感じられるのだ。私には今、書けることがないだろう。私は自分がここにいる、と胸を張ることさえできないのだから、意志を持って文章の最初から終わりまでに「生きた何か」を、閉じ込めることなどできそうもない。そうして弱り切った顔をしながらも、私にはどうしようもなく深刻さが不足しているのだ。そんな風だから、自分がどこに立っているのかも自信が持てないのだろう。

 こうして思い悩む時間など、ない方が幸福だろうか? 「それどころではない」という疾走感、それが生の実感を与えるとしたら、それが密度ある人生だろうか? しかし、私は追い詰められたくはない。走り続けなければ飲み込まれてしまうような状況の中に投げ込まれたら、私はきっと立ち止まりたいと心の底から願うだろう。私はみんなの輪から少し離れている自分が嫌いではなかった。今もそうだ。だから、置いていかれてその姿が遠ざかっていったとしても、私は迷ったり不安そうな顔をしたりしつつも、最後には自分の意志で立ち止まるような気がする。

 私はかたちにしたいのだ。それは名声でなくていい、ただ自分が胸を張れるようななにかを、「ああ生きていてよかった」と思わず心に呟く瞬間を積み重ねたい。それは物質でなくていい。もっと曖昧なもの、熱気や静寂や穏やかさの調和の中にも、それを感じたことがある。例えば、もう何年も前のことだ。なんてことない地元の川辺で、なんてことない夕暮れ時のことだった。何もなかった。そう、特に何があったわけではない。そこには景色があり、隣を友人が歩いていた。これも何年も前のことだ。サークルで訪れた島で、私は坂道を登っていた。その島にはサトウキビがたくさん風にそよいでいて、ざわざわと見渡す限り、空と褪せた黄で視界を二分していた。坂の頂上には、青空だけが見えた。私はその景色の中をゆっくり歩いていく。今でもその幸福感は失われていない。そこには劇的なものは何一つなく、あの瞬間の証拠とてない。それは私以外の、その場に居なかった他の誰にも共有されない。理解されない。私はあの時、言葉を惜しんだ。言葉にすることで、何かの調和を崩してしまうような気がしたのだ。だから、私は時折、自分と言葉の相性を疑ってみたりもする。私は言葉が好きだ。しかし、私は肝心なところで言葉を遠ざける。それは私の思考の限界なのだろうか? それとも、やはり言葉には踏み込むことのできない領域があるのだろうか。

 なんだか、話が余計な方に逸れたような気がする。しかし、思ったことを書き留めておくのは、後々読み返してみるとなかなか面白い。取り留めもない思考を繰り返しているから、自分でも思いがけない方に転がっていくのだろう。それがいつか、何らかの方向に、ある「かたち」をとって、これが私だと胸を張れたらいい、それが私の密度になればいい、と思いながら。

寂しさについて

 私は時々、自分がなにをしたいのか、なにが欲しいのか分からなくなる。恐らく全て不正解なのだろう。誰がいても、なにが手に入っても足りないままだ。私は今まで、この根源的な寂しさに気が付かずにいたと思う。家族といれば寂しいとは思わなかった(時々はその遠慮を知らない好意を、鬱陶しいと感じることもあったけれど)。友達が少ない私にとって、集団の中の孤独は馴染みがあるものだった。みんなでいるのに寂しい、はよく分かったけれど、大切な人がすぐ隣にいて、しかも天気も良くて(私はよく天気の影響を受けた。雨の日はなんとなく悲しかった)、おまけに道行く人々は花を眺めて幸せそうで……、それでも寂しいというのは不可解だった。

 私はベンチに座って自問自答した。隣にいる相手の存在を認識はしていたけれど、それだけだった。どうしてこんなに寂しいのだろうか? 今までは居心地が良かった。ここでならなんの不安もなかった。しかし、ここで休めないのなら、私はこの先、ずっとこの寂しさを抱えて生きていかなければならない。ここで休めない以上、どこに行っても同じであることは明白だった。私はこの先、あの満たされたぬくもりに浸り切ることはできないのだ。

 一瞬、とてもではないが生きてゆけないような気がした。しかし、思い直した。みんなそうなのだ。みんな寂しくて、みんな同じようにひとりなのだ。あるいは気が付かずに済むのかもしれない。私は「気が付く」ことが優れている、あるいはよくものを考えているなどと言うつもりはない。それはただの分類の問題だ。当たり前に人間はひとりなのだ。しかし、ひとりではないかのように生きることもできるのだ。

 私はこの先、どうやってこの寂しさに立ち向かったらいいのだろう。欲しいものも、大切な誰かもきっと全て不正解で、外側の力は何ひとつ、私の内側のひんやりとした空洞を塞ぎはしない。それは私自身の問題だからだ。私にしか迎え撃つことはできないのだ。恐らく私はこの先、空洞を持て余し、眠れぬ夜を過ごし、なにに対してか分からない焦りを感じ続けるのだろう。そして、その空洞を埋める術を探し求め、少しも進まない道のりに何度も立ち止まりそうになりながら、長い戦いを強いられるのだろう。

 時々は言い訳をするだろう。時々は外側に、甘えという名の弱音を吐き出すだろう。そして一時凌ぎに過ぎない関心を得ようとするだろう。しかし、それが自分の答えにならないことを、誰よりも自分が知っているのだ。

移り変わる空と地上の話 星空

 私たちはプラネタリウムにいた。プラネタリウムのある建物の、展示コーナーで銀河の解説が書かれたパネルを読んでいた。小さな子供を連れた家族や恋人たちに混ざって、私たち三人はその場の平均的な空気から、半歩ずれていたと思う。なんでもない休日だった。不思議とその記憶が鮮明なのは、白を基調とした近未来的な科学館の構造がそのほかの景色の中で異質だからだろうか。記憶のファイル一覧表があるとして、この記憶のサムネイルが目につくのかもしれない。

「いつか遠い未来、私たちは理想的な精神状態というのを、常に保つことができるようになっているかもしれないね」

 唐突な発言も、既に軌道を外れてしまっている私たちには当然のことのように思われた。事実彼らは、目の前のパネルから目を離すことなく、ただ遥か古代からその先の未来を駆け抜け、人類の終焉までを早送りの教育ビデオで目にしたように、半ば眠ったような眼差しで頷いた。

「そうとも。愛は永遠に、友情は容易く、人は互いを尊重し、戦争など馬鹿げた破壊衝動は歴史でしか目にしないことになるだろう」

「計算が狂わない世界、曖昧な変数が科学の力で制御できるとしたら。あの電気羊の小説のように、ムードオルガンのようなものでね」

 ああ、それはなんて素晴らしいことだろう! 私はうっとりとため息を吐いた。遠い遠い未来、私たちの生きる今は、なんて変わりやすく心許ない、一瞬の出来事なのだろう。取るにたらないもの、人類の進化からすれば個々の思い出などなんの意味もない。見つかりもしない。

「そんな世界、ぞっとするけれど僕らには無関係だ」

「今この瞬間、俺たちが関われるのはそれっきりなのだからね。未来は未来の価値観を備えた、俺たちとは全く別種の人間が決めるだろうよ」

 だから、そんな未来を自分たちが怖がったところでナンセンスなのだ、と結んだ。別の感覚が、思想が未来の世界を形作ってゆくのだから。

 

「俺、今日誕生日なのだけれど」

 私たちはプラネタリウムの放映時間を待っていた。パネルに視線を戻して、熱のない視線で文字を追っている。それでもそのパネルにしつこく視線を当てたまま、おめでとうと軽い調子で流す。もう一人は、微かに肩を揺らしてしのびやかに笑った。知らなかったな、おめでとう。誕生日の彼は情けなさそうに眉を下げた様子だ。お前には先週言っただろ、そうだった? 興味がないので忘れていたのだな。

 

 取るに足らない記憶たち。意識の表層に浮かぶのは、そんな思い出ばかり。しかし取るに足る記憶の条件は、私にはちょっと導けそうにもない。

 

移り変わる空と地上の話 夕日

 私は何かを恐れていた。今に始まったことではない。ずっとずっと、私には怖いものがあったし、それは大人になれば減るどころかだんだんと増えてゆくのだ。例えばこの赤、こんな風に晴れた日の限られた時間だけ、気まぐれに見かけるこの色が怖い。美しいものは恐ろしいなどと分かったように言い切りたくはないし、この傾いた天体の入射光を美しいと評するのは、議論を飛ばして結論の体裁だけ整えるようなものだと感じてしまうのだ。

 本能的な恐怖か。それで今、どうして私はあの赤に向かって歩いているのだろう。ここは田舎で、星空を遮る灯りはないけれど、低くなった陽の姿は建物に隠されてしまう。建物の隙間から滲み出るあの赤、その正体を突き止めに私は川に向かって歩いているのだ。あの場所は開けていて、とうに散ってしまった桜がただ並んでいるだけの場所だ。春先には人で賑わうけれど、植物に詳しくはない私の目に「木」としか映らない緑の葉を繁らせた姿になってしまっては、もう誰も立ち寄る者はいない。途中で引き返そうかと思った。そこはいつも車で通り過ぎるので、私の足ではなかなか辿り着かないことに嫌気が差してきたのだ。

 私には怖いものがたくさんある。変わることが怖い、取り返せない時間が怖い、変化がないことが怖い、予測できることが怖い、分からないことが怖い、ひとりが怖い、人が怖い、君の心が見えないことが怖い、君の考えを知ることが怖い。時計の音が怖い、戻れないのに進むことが怖い。ああまた歩けなくなる。

 私は立ち止まって空を見上げた。建物に隠れたそれの正体を、私は目にしないほうがいい。日没が太陽の死だとするなら、私にはとても直視できそうにもなかった。生きてきて上達したことと言えば、疑問を押し殺すことに物分かりの良いふり、それに言い訳くらいのものだった。そうか、案外あるものだな。こんな具合に真剣な話を茶化して向き合うことを避ける姿勢。つまらない、しかし自分の周囲はいつだって自分より上手に生きていた。誰ひとり、どうしてなんでと、子供じみた疑問を繰り返しはしないのだ。恥ずかしいことなのだ。

「どうしてそう思うの」

 その声はなんの感情も浮かべていなかった。君が初めて、私を正面からみた瞬間のこと。私が器用なら、きっとここでうまく切り抜けられた。しかし私は考えた、言葉に出した。君の声には無理に焚きつけたような熱がない。偽りのない体温があるだけだ。人の声とは、ここまで素朴に響くものなのだ。それは色のない声だった。媚も、称賛も、当たり障りのなさも、友好的な空気も、意図された物柔らかさも、人馴染みの良さも、敵意も、押し殺した憎しみも、何も、何もなかった。

「なんでそんなこと聞くの」

 私の声にも、今や被せた装飾は何もなかった。僕はね、と君が答える。なんでもない、それが会話なのだと。私は君になら、この整理されない感情と思考をありのままぶつけられると思う。私はこの赤が怖い。それは太陽の死ではないかと思う。夕日を見ると苦しくなるのは、戻らない一日の後ろ姿だからなのではないかな。

 

 滲む赤がその彩度を落としてゆく。思い出したように私は背を向けて、家路を辿ることにした。君にこの話をしよう。その暁には、日没と日の出をこの目で確かめに行こうと思う。

 

移り変わる空と地上の話 青空

 ああ梅雨が明けた。ふっと心が浮き立つのを感じた。私には天気図は読めないし、データの示す意味も分からないというのに。しかしこの空の高さ、広さ、青さが何よりの証拠だと思う。それが大切なことなのだけれど、大人の習慣を身に付けた私には、この感覚が到底、周囲の理解を得られないことは知っている。

 この空の軽さ、空気の熱、日の混じりけのなさ、ほらこれが何よりの答えだと示したところで、きっとそうに違いないねと笑う誰かに思い当たる当てなどないのだ。ないことはない、と無意識が意識に口を出す。そうだ、君なら何でもなさそうに(いっそのことつまらなさそうに)、そうらしいと頷いてくれるだろう。

 

 君には分かる。君は子供だったことを覚えているし、データが示す数字の羅列に意味を持たせることができる。私には分からない。君が考えていることも、私の君への感情も。好きだとは思う、それにしては熱が欠けている。離れて君を思う時の私の心は、穏やかで乱れるということがない。君から私への思いを量ろうとはしない。それは愛か。君に出会って初めて私は、君と大切な人全ての幸せをあるがままに願うことができた。君は私のものにならなくていいし(心の所有など最初からできるはずはないのだが)、君に私だけを見て欲しいとは思いつきもしない。そうか、恋を経ない(それでいて最初から与えられていた家族の愛とも異なる)愛も確かに存在し得るのだ。

 その理解は唐突に訪れた。時間を掛けてゆっくりと降り積もったものだったのだろう。愛は事実、存在する。嘘みたいに、地上を押し付けていた呪縛が向こう側に隠していた夏、その姿が現れるとともに、私のどろどろと停滞していた思考が流れ着く先を見つけたのだ。愛とは湿り気を帯びたあの季節のように重苦しいものではなかった。愛とはこんなにも静かで、確かめることすら難しいほどにさりげなく、それでいてそこにあるものだったのだ。そしてそのことを知らない、誰かを愛したことがない人にはどうしたって見えないだろう。

 息がしやすいと思う。いかに人を愛したかが人生の価値だとらしくもなく思ったのは、天候の影響を受けやすい私の精神が一時的にこの空と同調しているためだろう。それも世界の一面には違いない。誰に見えている世界が正しいのか、そもそも正しい世界の認識などというものが存在し得る、共通の絵として眺めることができるものなのかは置いておくとして。私が今感じた人生の目的もまた、私にとってのひとつの答えであっていいような気がしていた。

 

 君は笑わないだろう。同意してくれるかは分からない。君の考えはもちろん、その反応も私には見えない。それだから君に話したいと思う。模範解答に定型文があふれた日常で、予測し得ない君への関心が尽きないのだ。分かりきった人間関係には破綻などなく、穏やかで間違いがない閉塞感に息が詰まる。そこに開けたのが君という存在だった。あるがままに君は思考し、言葉を吐く。

 

 それが私の青空だった。梅雨明けに見上げる空の青さと空気だった。

 

移り変わる空と地上の話 朝日

 ゆらゆらと光が揺蕩う海底を思い浮かべた。まるで水底から見上げたように、藍から青へ、青から白へと色が折り重なり混じり合って奥行きを生み、それでいて手を伸ばして触れようとは思いもよらない程に透明なのであった。そう、あの空には手が届かないことを知っている。

 徐々に彩度を上げていく世界にひとり、朝日を待っている。正確な時刻は知らないし調べようとも思わなかった。ただ視界の端にまだ濃い闇の気配が残っているから、夜明けが訪れていないことは知っていた。

 

 思い出したように頭を巡らせる。周囲は山に囲まれ、渓谷に張り出した人工の足場が、人間の存在を意識させる唯一の物だった。ここには自分しかいない。しかし命の気配がする。それは大袈裟に言ってしまえば、この星の呼吸とでもいうのだろう。注意して音を拾うと微かに風が渡るようだ。

 もう日は昇っているのかもしれない。ここは山の頂でもないし、この場所から朝日が見えるのかも知らない。東の方向を注意深く探ってみても、ただあの辺りが一層明るいことが分かるだけだ。影さえ映さずとも、あの陽というものの存在感は圧倒的だ。その光と熱が一帯の空気をまるで夢みたいに変えてしまう。

 夜が明けたことにしよう。何気なく腕時計を確認しようとして、視線の先に上げた左腕がいつもより軽いことに気が付く。リュックには携帯が入っているが、改めて取り出す気にもならなかった。

 日に背を向けて歩き出しながら、ふと夜は何処へ行ったのだろうと思う。習い覚えた科学の知識が、この時ばかりは御伽話のように現実味がなかった。きっと、夜は西の方角に沈んで行ったのだ。そうして繰り返す天体の入れ替わりに、時間という意味を見出した人間の感覚を面白く感じながら、明日からまた新しい年が訪れることを不思議にも思う。その区切りもまた、人間にとってだけ特別なものなのだが。

 日に向けた背中があたたかい。その温もりに呼び掛けられたような気がして振り返る。相変わらず姿は見えないが、飽きるほど毎日律儀に繰り替えし顔を出す太陽が、そこにはいる筈だった。何か挨拶でもしようとして、そんな自分に苦笑する。

 

 今までもこれからも、自然というやつは人間に無関心だ。だからこそ人は、好き勝手にそこに意味を見出そうとするのだろう。否定もなければ肯定もなく、共感など起こり得ない。その一方通行な存在に、人は関わることをやめることができない。

 海底のイメージを思い起こそうとしても、振り返った景色の白に塗り潰される。その光に目を細めながら、明日から繰り返す一年できっとこの景色を思い出すだろうと感じた。記憶に焼き付けるように、目を閉じて大きく深呼吸をする。ゆらゆらと、光の名残が意識を揺蕩う。無意識に手を伸ばした。前へ。

 

 春にまたここを訪れようと思う。うまく行けば、空を切った手に花弁が捕まるかもしれない。そんなことを取りとめもなく考えながら、再び歩き出した。